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日本のソフトウェアエンジニア出身の創業社長まとめ

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日本のIT業界で何かにつけよく言及されるのが、「アメリカでは Microsoft のビル・ゲイツ、Google のブリンとペイジ、Facebook のザッカーバーグを始めとするエンジニア出身のスーパースター起業家がゴロゴロいるのに、日本ではほとんど見かけない」ということ。それが日本のIT業界が今ひとつパッとせず、欧米勢にやられっぱなしの大きな原因のひとつのように言われています。

また成功して富と名声を手に入れたエンジニアが多いことが、アメリカでのエンジニアの社会的地位や待遇を押し上げていることも事実であり、物価の違いはあれどコンピューターサイエンス専攻の新卒学生がいきなり年収15万ドルを提示される土壌になっているのでしょう。

しかし日本でもハードウェアの領域に目を向けると、有名なところではホンダの本田宗一郎やソニーの盛田昭夫・井深大のような例はけっこうあります。やはり問題はソフトウェア領域。界隈で有名なソフトウェアエンジニアというと Ruby作者のまつもとゆきひろ氏を代表格に純粋な技術者が多く、ソフトウェアエンジニア出身で成功した起業家が取り上げられているのを寡聞にしてあまり見かけません。

しかし日本でも、そのような人たちが全くいないわけではないはず。そこで今回は、ソフトウェアエンジニア出身のめぼしい創業社長を調べてみました。
(以下、役職と会社の時価総額は2015年10月6日現在のもの)

馬場功淳(コロプラ)

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1人目はスマホゲームのトップメーカー「コロプラ」代表取締役社長、馬場功淳(ばばなるあつ)さん。コロプラは東証一部上場企業で、現在の時価総額は約2,607億円となっています。

2015年4月にアメリカの経済誌「Forbes」が発表した、10億ドル以上の資産を持つ世界の億万長者番付にランクインした日本人24人の内の1人で、同紙によるとその時点での個人資産は推定1,920億円。コロプラのIR情報によると、馬場さんの持株比率は55.9%だそうなので、これは妥当な額でしょう。

現時点ではまちがいなく、日本国内におけるソフトウェアエンジニア出身のぶっちぎりでトップの資産家だと思われます。

馬場さんは1978年生まれの兵庫県伊丹市出身。中学時代に電子工作部に入部、学校のパソコンで『マイコンBASICマガジン』をお手本にプログラミングを始めるように。いわゆる「ベーマガ世代」ですね。

その後、宮城県の都城工業高専に進み、ラグビー部に入部して高専ラグビーで日本一になります。卒業後は九州工業大学工学部知能情報工学科へ編入。ロボット等に用いる画像認識の研究に携わり、そのまま同大学の大学院に進みましたが、博士課程のときに友人に誘われてケイ・ラボラトリー(現 KLab)で iアプリ開発のアルバイトを始めることに。そのうち仕事がおもしろくなって大学院に行かなくなり、1年後に休学(さらに翌年に退学)。そのままケイ・ラボラトリーの正社員になりました。

当時25歳でしたが、よほど優秀だったのか博多支店の所長として10数名のスタッフをマネジメントする立場に。さらに本社の開発部長に抜擢されて出世コースに乗ります。そのいっぽう、プライベートで「位置ゲー」を開発、自宅のサーバーで2003年5月より運用を開始。これが「コロニーな生活☆PLUS(コロプラ)」の原型でした。

本業と「コロプラ」の開発・サポートという二足のわらじ状態は、その後およそ5年続きます。途中、Klab からグリーへの転職を経験しながらも、「コロプラ」の人気により兼業を続けられなくなってグリーを退職。しかしそれでもまだ会社にはせず、当初は個人事業として登録、その半年後の2008年10月にようやく「株式会社コロプラ」の設立に至ります。

創業には慎重でしたが、会社は毎年増収増益を続けてめざましく成長していきます。「コロプラ」の成長が鈍ると、いち早くスマートフォンゲームに目を付け、2011年9月に第一弾の「きらきらドロップ!」を皮切りに本格的なタイトルを次々に投入。会社は2012年12月に東証マザーズに上場、さらに2014年4月に東証一部に昇格します。

もうその後の説明は必要ないでしょう。2015年9月期四半期決算でも、売上高35.7%増・営業利益35.5%増と絶好調。「白猫プロジェクト」はトップセールスの常連で、最近は Oculus Rift を用いた VR領域にも進出しています。

ちなみに馬場さんは確認できる限り2012年の年末くらいまで、ずっと第一線でコードを書いていたようです。コードだけでなくゲームの企画も手がけており、大ヒット作「魔法使いと黒猫のウィズ」は馬場さん本人による企画原案とのこと。

経営者としてもエンジニアとしてもクリエイターとしても第一級。エンジニアが目指すロールモデルの1人に申し分ない方じゃないでしょうか。

川上量生(ドワンゴ)

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こちらは特にネットでは有名人ですので、ご存じの方も多いはず。ドワンゴの代表取締役会長で、その持株会社カドカワの代表取締役社長、川上量生(かわかみのぶお)さん。カドカワは東証一部上場企業で、時価総額およそ1,156億円。なお10月1日付で、社名がそれまでの「KADOKAWA・DWANGO」から変更されています。

ちなみに川上さんの個人資産額を計算すると、IR情報ではカドカワのトップ株主として8%の株を持っているそうなので、持株分でおよそ90億円ということになります。

川上さんは1968年生まれ、大阪府和泉市の出身。1990年に京都大学工学部を卒業後、ソフトウェアジャパンという会社に就職。調べたところ Netscape Navigator 1.0〜2.0 やモデム、MPEGボードなどの販売代理店を行っていた会社のようです。業務の一環で、ダイヤルアップインターネット上で DOOM などの通信対戦ゲームができるサービス「DWANGO」を提供していた米IVS社に、川上さんがライセンスの交渉をしていた矢先、ソフトウェアジャパンが倒産。

IVS社と川上さんが共同出資、IVSの日本子会社として有限会社ドワンゴジャパンが設立されたのが1996年のことでした。それとは別に翌1997年8月、川上さんを社長として、ソフトウェアジャパン時代の同僚およびゲーム制作集団「Bio_100%」の人たちをメンバーに株式会社ドワンゴを設立。

なおドワンゴジャパンのほうは、技術的問題や時間制課金を採用したことでユーザーの支持を失い「DWANGO」サービスを1998年に停止、ほどなく倒産しています。一方の株式会社ドワンゴは、中心となった「Bio_100%」というのはパソコン通信時代から続く伝説のゲーム制作集団で、その技術力で「セガラリー2」を始めとするドリームキャスト向けゲームの通信対戦部分のシステムを手がけるなど、オンラインゲーム専門のゲーム系技術企業として伸びていきます。

しかし川上さんは2000年に、元スクウェア取締役の小林宏氏に社長の座を譲ります。以降社長は2012年に荒木隆司氏に変わっていますが、彼は会長のまま。つまり川上さんがドワンゴの社長だったのは、実は創業当初の3年だけなんですね。(持株会社のカドカワでは社長ですが)

その後ドワンゴは初期の携帯電話の着メロに目を付け、着メロサイト「16メロミックス(後のいろメロミックス)」を開始。これが大ヒットして、お茶の間にも CM が流れるように。2003年には東証マザーズに上場、さらにその翌年には東証一部に市場変更。
また2006年に開始した「ニコニコ動画」がこれも大ヒットするなど、子会社で小さく始めたサイドビジネスが当たってそれが本業を支えるようになる、というパターンを繰り返して今日に至ります。

そして世間を驚かせたのが、2014年5月の KADOKAWA との経営統合発表。川上さんは当初合併した持株会社の代表取締役会長でしたが、2015年6月に代表取締役社長に。現会長の元KADODAWA 佐藤辰男氏も代表権を持っているため共同代表という形ですが、グループで約3,800名を抱える一大メディア企業のトップとなっています。

また彼は、ドワンゴの CTO(象徴CTO)でもあります。なお自分がエンジニアだったということをふだんは隠したいそうなのですが、子どものころは BASIC に始まり、8bit CPU の Z80 でマシン語を独学で学び、逆アセンブラを作ったり OS の解析をしていたとのこと。大学時代は Microsoft C や CAD の開発にのめり込み、ソフトウェアジャパン勤務時代には『Software Design』誌に技術記事を寄稿。またドワンゴでも、通信パケットを解析してチャットデータを抽出するようなシステムのコードを書いていたそうです。

田中邦裕(さくらインターネット)

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3人目は「さくらインターネット」代表取締役社長の田中邦裕(たなかくにひろ)さん。
さくらインターネットは東証マザーズ上場企業で、現在の時価総額は約103億円。IR情報によると田中さん個人の持ち分比率は2.8%ですが、「(株)田中邦裕事務所」なる会社が12.9%保有しており、それを足すと15.7%。そこから計算される実質資産額は持株で16億円ほどということになります。

田中さんは1978年の大阪府生まれで、子供時代を過ごしたのは奈良県。小学生のころから自宅の PC-6001 でプログラミングをし、ハンダごてで電子工作をするのが好きな少年だったそう。あるとき父親に連れられて行った奈良高専でロボットを見たことでエンジニアを志すようになり、京都の舞鶴高専に進学。そこでロボット製作に夢中になり、卒業までに4年間連続で高専ロボコンに出場しました。ちなみに1978年生まれの高専出身というのは、偶然ながらコロプラの馬場さんと共通ですね。

ロボット開発に携わる中でインターネットと出会い、学校でサーバーを立ち上げたところ、友人たちがそのサーバーを使って様々に情報発信するように。それが嬉しくて UNIX を独学で勉強し、PC に FreeBSD をインストールした安価なサーバーを構築して、学内向けにボランティアでホスティングサービスを開始。そんな折りにたまたま目にした雑誌の「自前サーバーでスモールプロバイダーを始めよう」という記事に触発され、地元の ISP に回線を間借りして一般向けのホスティングサービスを始めたのが1996年12月のことでした。

そのとき友人がハマっていた「サクラ大戦」というゲームから名前をもらい、「さくらインターネット」が誕生。しかし当時、田中さんはまだ高専在学中の18歳。ロボコンに加え吹奏楽の部活も掛け持ちの中、学校の後輩と寝る間も惜しんでサーバーのメンテナンスやサポート作業に当たりました。そして高専を卒業するころには加入者が1,000人を突破、それまで個人事業だったのを法人化し、資本金600万円で「有限会社インフォレスト」を設立しました。

破格の料金体系とシンプルなドメイン名がクチコミを呼び、ユーザー数は順調に増加していきました。そして1999年8月、インフォレストと神戸の新興データセンター事業者エス・アール・エスと共同出資という形で「さくらインターネット株式会社」を設立、データセンターのハウジングサービスを開始。さらに池袋にデータセンターを新設し、自前の高速回線サービスを提供する本格的なデータセンター事業者となりました。(2000年にインフォレストとエス・アール・エスを吸収合併)

2004年、月額1,000円以上が相場だったレンタルサーバーを125円で提供して業界に激震を与え、そして2005年には東証マザーズに上場。しかし手を広げた PCオンラインゲーム事業で大損失を出し、債務超過に陥ります。数千万単位の自腹の借金で減損対象の子会社の株を買うなどするも結局、2008年に総合商社の双日に出資を仰ぎ、現在に至るまでその株式の4割超を所有される連結子会社となっています。

さくらインターネットはそのコストパフォーマンスの高さから、mixi や GREE、2ちゃんねる、はてな、ニコニコ動画など日本の大手IT企業のスタートアップ時にはさくらが使われていたという逸話があります。創業17年目の2014年に売上は100億円を突破。高専在校時代の趣味で始めたサービスが100億円事業にまで育ったというのは、エンジニアを志す学生、特に高専生を惹き付けるサクセスストーリーではないでしょうか。

その他

上場企業の創業社長を紹介してきましたが、未上場のスタートアップにはもっとたくさんのエンジニア創業社長がいます。

たとえばユーザー数170万以上のオンラインチャート共有サービス「Cacoo」やプロジェクト管理ツール「Backlog」を提供し、北米へも事業展開している株式会社ヌーラボは、社長の橋本正徳さんを始めとする3人のプログラマーが創業した会社。橋本さんは高校卒業後、飲食業を経て地元の福岡で派遣エンジニアになり、技術コミュニティの仲間だった2人とヌーラボを始めました。

また月間100万UU を超えるプログラマー向け情報共有サービス「Qiita」やオフィス向け情報共有サービス「Qiita:Team」を提供する Increments株式会社の創業社長・海野弘成さんもソフトウェアエンジニア出身。京都大学工学部情報学科在学中にはてなでアルバイトを経験、社内で使われていた情報共有ツールをヒントに、ビジネスコンテストで知り合った仲間と3人で起業したそうです。

「創業社長」の縛りを外せば、上場企業でも DeNA の現社長・守安功さんは「モバオク」の開発などを手がけたエンジニア出身。また先日、惜しくも亡くなられた任天堂の岩田聡・前社長は数々の伝説的エピソードを持つ天才プログラマーでした。

 

日本ではメディアも大衆も、お金に執着せず純粋に技術を極めようとするエンジニア像を求める傾向があると思います。卵が先か鶏が先かではありませんが、そういうエンジニアに押しつけられ、自らも内面化してしまっている職人の清貧思想が、日本でエンジニア出身のスーパースター社長がなかなか生まれない原因のひとつかもしれません。また起業志向の人たちを「意識高い系」と揶揄したり、二次請け・三次請けの受託企業の惨状を一般化して「IT系は全てブラック企業」と若い人たちに吹き込むような風潮も、個人的には滅んでほしいと考えています。

数は少なくても事業で成功したエンジニアがもっとスポットライトを浴びて、学生や駆け出しエンジニアのロールモデルになってほしい。そんな思いで今回の記事をまとめてみました。